謎の怪文書(?)

2021/11/01

 先週のことだが、わが家の郵便受けに「御譲位・平成三十一年四月三十日 三種の神器の文献上の証拠 『建国の三大綱』 明治維新から百五十年の節年」と題する(おそらく手製の)小冊子が放り込まれていた。

 「アジアの夜明けとなった明治維新から百五十年の慶歳(よきとし)」、現上皇から今上帝への譲位に際して、「日本建国の原点、として皇室に伝わる重要なる御物『三種の神器』」(原文ママ、以下同様)の解説を試みたものらしい。内容的には「天壌無窮の神勅」だの、儒仏の理念と神器「玉・鏡・剣」との対応だのと、伊勢神道以来の相も変わらぬ付会の説が語られていて、特に見るべきものはない。唯一目新しい(?)のは、古墳からの出土品と『日本書紀』の記述を根拠に「三種の神器は日本人民の全体の政治思想であった事がわかる」とし、「玉」を「行政」に、「鏡」を「立法」に、「剣」を「司法」に配当して近代国家の「三権分立」と対応させ、「これほど堂々たる政治思想はないのであります」としている点か。しかし、こういう闇雲な牽強付会は、本居宣長や平田篤胤以来の国学の「伝統」といっても良いもので、特に目新しいことでもないのかもしれない。

 知らない人のために解説しておくと、「天壌無窮の神勅」とは、天孫ニニギノミコトが地上に天下る時に、天照大神が「葦原(あしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是、吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(い)でまして治(しら)せ。行矣(さきくませ)。寶祚(あまのひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)り無けむ」と勅したという伝説で、『日本書紀』巻第二(神代下)に出てくる(引用は岩波書店・日本古典文学大系67『日本書紀』による)。幕末の国学・神道流者、明治以降の右翼・国家主義者などが好んで引用する部分である。

 しかし実はこの「神勅」、『日本書紀』本文には存在しない。『日本書紀』は本文の各段の後に「一書(あるふみ)に曰く」で始まる異伝が付されていて、件の「神勅」は第九段に八つある異伝の一つに出てくるだけである。異伝の一つに出てくるにすぎない「神勅」がなぜそれほど重要なのか、本文より異伝の記述の方が信頼できるのか、管見の及ぶ限りその点について私の納得のゆく説明をしている国学者や国家主義者はいない。彼らは北畠親房『神皇正統記』も大好きなようだが、それにしては冒頭の「大日本(おほやまと)は神国(かみのくに)なり」以外を読んだ形跡がないのと同じなのかもしれない。が、21世紀にもなって愚直に信じている人がいるとは、むしろ珍重すべきかもしれない。

 それにしても不思議なのは、「平成三十一年」の「譲位」に際して作られたと思しき小冊子が、なんで今頃になってわが家の郵便受けに入っていたかである。近代日本のナショナリズム・右翼・アジア主義・国家主義に、私が近年興味をもって研究(?)していることを知っている誰かが奥床しくも名を隠して与えてくれたのだろうか。それとも時節柄、眞子女王(当時)の結婚を前にして、「今こそ皇統の大義を示し、皇道を宣布しなければならない」と発奮した御仁が、賞味期限切れの不良在庫を一掃しようとしたのだろうか。謎は深まるばかりである。

歴史上の与太話

2021/02/08

 HPを開設して以来、まだ1件の問い合わせも来ていないのだが、それでも問い合わせが来た場合のため、利用規約だのプライバシーポリシーだの塾のご案内だのの文書作成で忙殺されて、ブログの更新が遅れてしまった。

 そういえば昨日大河ドラマが最終回を迎えたようだ。「迎えたようだ」というのは観ていなかったからで、最近は大河ドラマに限らず、テレビの連続ドラマの類はとんと観ていない。毎週同じ時間にテレビを観られるわけでもなく、また録画までして観たいとも思わないからね。評判の高い作品なら、気が向いたときにTSUTAYAで借りて観ればよい。

 そんな大河ドラマを玉三郎と染谷将太君目当てで(主演の長谷川博己君には申し訳ない!)毎週観ていた家人が、最終回を観た後に突然「テンカイセツを採ったんだ」と言いだした。テンカイセツ? 何のことかわからず問い返してみたら、何のことはない。明智光秀は実は山崎の合戦で討たれてはおらず、後に南光坊天海という僧侶となって初期の江戸幕府に大きな影響力を揮ったという歴史上よくある与太話のことだった。つまり「天海説」。いうまでもなく源義経がチンギス・ハーンになったとか、東北地方にイエス・キリストの足跡が遺っているなどという話と同様、まともな歴史家が相手にするものではないが、この手の他愛のない与太話はいいねえ。悲運の武将への哀惜が感じられて。もちろんテレビドラマがそのような「説」を採ったからといって、「史実ではない」などと怒って投書したりツイートする必要もない。エンタテインメントなんだから。少なくとも今のところ、『シオンの賢者の議定書』みたいに、たいへんな害悪をもたらす可能性はない。

 日本の歴史上最大の与太話は何だろう。先日読んだ中公新書『椿井文書―日本最大の偽文書』(馬部隆弘著)で、江戸時代の椿井政隆という人物が、実に巧妙に大量の偽文書を作成し、それが現在に至るまで学校教材や市町村史に活用されてきたことが紹介されていたが、これなんかはかなり上位にランキングされる与太話ではないか。歴史上の大事件というわけではないけれど。それにしてもどうしてこれだけの偽文書を長期間にわたって作り続けたのか、その情熱には恐れ入るね。椿井文書を資料として市区町村史を編纂した役所の担当者が困惑しているというニュースにもなって、お気の毒としかいいようがないが、それでも椿井政隆に対する怒りが湧くかというとそうでもない。彼は(もちろん報酬目的であったのだろうが)各地域の人々の願望に応える形で次々と偽文書を作り、それと過去に作った偽文書の内容と辻褄を合わせるために結果的に大量の偽文書を遺すことになったらしく、そこに彼自身の名誉欲や政治的野心の類は見られないからだ。過去のイタズラに引きずられてどんどんと深みにはまってしまったかのようにも思えてしまう。

 だいたい歴史の改竄などというのは自己の権力の正当化とか、過去の蛮行の糊塗を目的とした情けないものが多いが、それに較べれば椿井政隆などカワイイものだ。

 やたらとセンセーショナルでスケールが大きい(?)与太話はやはり熊沢寛道だろう。戦後のGHQ体制下で突如マスコミの寵児となった「熊沢天皇」だ。後南朝の後裔である自分こそが正統の天皇である、今の天皇はニセモノである、即刻退位すべしと主張してマスコミに面白おかしく取り上げられた。彼は戦前からそのような主張を要人に上申していたらしい(もちろん相手にされなかった)から、どうやら本気でそう思っていたようだ。何というか、後南朝なんて一体何世紀前の話なのか。20世紀になってそのような話を本気で信じているというのも……と思うが、21世紀になっても自分の血筋を溯れば○○天皇だ、などと自慢する輩がいるのだから、それほど驚くべきことでもないかもしれない。でもそんな風に血筋を溯ってばかりいたら、日本中天皇だらけになってしまうのではないか。他人事ながら心配だ。

 しまった。若い頃見た思い出深い大河ドラマの話をするつもりだったのに、話が脱線してしまった。その話はまたの機会に。

めでたし

2021/01/30

 HP開設記念の投稿なので、何かお目出度いことでも書こう。

 とはいっても、このご時世なかなかお目出度いことはないもので、○○退陣をお目出度いなどと書いたら「信者」から集中砲火を浴びるだろうし、××で「珪藻土なんとか」を返品して3000円ぐらい返ってきたという程度でお目出度いもないだろう。今のような世の中だからこそお目出度いことを言いたいので色々考えるのだが、どうも何も思いつかない。このような場合はやはり先人の知恵に頼るのが一番だ。古典から気のきいた佳什を引用してお茶を濁すことにしよう。

 古典で「お目出度い」のは、何といっても天明狂歌だろう。もちろん権威ある勅撰和歌集にも「賀歌」という部立があって、『古今和歌集』に「君が代は千代にましませ~」という「君が代」の元歌もあったりするが、それを引用して「テンノーヘーカ、バンザーイ!!」などと絶叫する趣味はないので、やはり天明狂歌だ。

かくばかりめでたく見ゆる世の中をうらやましくやのぞく月影
(『万載狂歌集』四方赤良)

 四方赤良は天明狂歌の中心的人物、蜀山人大田南畝の若き日の狂名であり、この歌は『拾遺和歌集』藤原高光「法師にならむと思ひたちけるころ、月を見侍りて かくばかり経がたく見ゆる世の中にうらやましくも澄める月かな」を本歌とする。わずかな字句を変えるだけで、厭世的な本歌を逆転させてお目出度い歌にしてしまう、この軽やかな運動神経が、狂歌師四方赤良の真骨頂だ。彼には他にも

あなうなぎいづくの山の妹と背をさかれてのちに身を焦がすかな
金銀のなくて詰まらぬ年の暮れなんとせうぎ(将棋)と頭かく飛車

などという傑作がある。

 四方赤良だけではない。安永・天明期の戯作は一般に「お目出度い」感覚に満ち満ちていて、狂歌なら他にも

汗水をながしてならふ剣術のやくにもたたぬ御代ぞめでたき(『徳和歌後万歳集』・元木網)
年の寄る春をめでたいめでたいと祝ふおろかを山も笑ふか(『狂歌才蔵集』・宿屋飯盛)
などというのもある。この「お目出度い」感覚が何に由来するのか興味が沸くが、もう長くなるので最後にもう一首紹介してお開きにしよう。

音に聞き目に実入りよき出来秋は民も豊かに市が栄へた
(『万載狂歌集』折句歌・四方赤良)

設問 本文のなかに何回「めでたい(目出度い)」という語が出てきたか、漢数字で答えよ。

答え 十四回。十三回ではない。最後の「音に聞き」の歌は折句なので、これも数える。さて、これだけくり返せばきっとお目出度いことが起こるに違いない。

このブログについて

2021/05/01

 うかうかしているうちに、ひと月も更新しないままになってしまった。
 受験塾のHPの宣伝ブログであるにもかかわらず、受験情報も勉強法の類も出てこないのを不審に思う人もいるかもしれないので、ここで説明をしておこう。誰も読まないだろうけれど。

 このブログを始めるにあたって決めた基本方針は以下の通りである。
① 自分の好きなこと、気に入ったものについて書く。
 納得できないこと、腹の立つことについて書くのはたやすいが、そのようなものを書いたところで事態が好転するわけでもなく、何の益にもならないどころか、逆に批判している自己に酔って独善に陥る可能性が高い。世に「盗人にも三分の理」というが、たとえ批判されてしかるべき人物であってもそれなりのよんどころない事情があるかもしれず、事情もよくわからないままいい気になって批判して、後で後悔するのも嫌である。それにたとえば近年の文部科学省だの有識者会議だのの迷走ぶりについては、言いたいことが山ほどあるが、それを書きはじめると、書いているうちにどんどん腹が立ってきて、怒りのあまり腹が減ってしまう。詰まらぬことだ。
 自分の気に入ったものについて、その魅力を伝道している方が気が楽である(つまり書いても書かなくてもよい、無駄な文章だから更新も遅くなるのである)。
② 時事問題については扱わない。
 時事問題は、いうまでもなく現在進行中の事象であり、必然的に全貌を捉えることが難しく、どのような結果になるのかも不明である。そのような問題について、わかったような顔をして御託を述べるのは、知性ある人間の取るべき行動ではない(という気がする)。そして何より、一過性の話題などについて駄文を綴るより、アラン・ムーアの『フロム・ヘル』でも読んでいた方がよほど楽しい。
③ 受験情報や勉強法などは話題にしない。
 受験情報などはこんな個人塾より学校や大手予備校のほうが早くて正確だし、勉強法について、タダで教えてあげられる内容は高が知れている。こちとらも商売なので、全部をブログで公開するわけにもゆかないのである。そして勉強法は、中途半端に一部分だけ教えても役に立たないどころか有害でさえある。今までどれだけ「~すれば成績アップ!」という文句に踊らされている受験生を見てきたことか。

 ということで、今後も好きなことを好きなように(気が向いたときに)書き綴ることと致そう。

 因みに、投稿のタイトルの上にある投稿日と本文の右上にある日付が一致しないのは、ドメイン(iwamakokugo.plala.jp)が無効になっているの気づかず、数日経ってから慌てて新ドメイン(現在のiwamakokugo.mydns.jp)に移行したことに起因する。そのときのドタバタについてはそのうち気が向いたら書こうと思うが、本文右上の日付が本来の投稿日である。