『案内手本通人蔵』あるいは紅旗征戎は吾が事に非ず

2022/02/28

 たまたま昔の探偵映画を再見して、立て続けに見たのが『不連続殺人事件』(1977)と『犬神家の一族』(1976)であった。『不連続殺人事件』は坂口安吾原作で曾根中生監督、『犬神家の一族』は横溝正史原作で市川崑監督、名探偵役はそれぞれ小坂一也と石坂浩二と、いずれも有名な作品だが、この二つ、いくつかの共通点がある。

 怪しげな登場人物と複雑な人間関係、趣向を凝らしたトリック、それを見事に解き明かす名探偵という、探偵小説の定番を履んでいることはいうまでもないが、両作とも真犯人が予定の殺人をすべて実行した後に謎が解明されること(つまり犯人は目的を果たしてしまうわけだ)、最後の殺人がなされる(つまりこれで目的達成)とき名探偵が不在(証拠捜しに別の土地に出かけている)で、戻ってきてから最後の殺人が実行されたことを知って自分の不明を恥じること、さらに真相の露見を知った真犯人が衆人環視の中、隙を見て服毒死し、名探偵が「しまった」と叫ぶこと。これでは何のための名探偵かわからないね、と言われてしまいそうだが、考えてみれば事件を予見してそれを防ぐために果敢に行動し、見事犯罪を未然に防いだ、というのではまるで『案内手本通人蔵(あなでほんつうじんぐら)』になってしまって、少なくともサスペンスにはならないだろう。

 『案内手本通人蔵』というのは安永八年(1779)刊行の黄表紙で、題名からもわかるとおり『仮名手本忠臣蔵』のパロディである。作者は朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ。これはもちろん戯号で、ご本人は秋田佐竹藩留守居役という立派な身分の武士)。どんな話かというと、『忠臣蔵』の悲劇は塩冶判官、といっても何のことだかわからない人のために解説すると、江戸時代は、同時代の事件をそのままネタにしては幕府の禁に触れるので『忠臣蔵』は室町時代を舞台としている。したがって登場人物も史実とは別の人物が宛てられており、浅野内匠頭は塩冶判官、吉良上野介は足利尊氏の執事高師直、大石内蔵助は大星由良之助となっている。その塩冶判官が通(つう。人情や社会の機微に通じていること)でなかったことが悲劇の原因として、序文に曰く、

 「仮名手本忠臣蔵を按ずるに、大星が忠義抜群なりといえども、もとは塩冶の不通により、かつ初めの賄(まいない)の薄きより起れり。これ世の中の案内(あな)を知らぬ故なり。されば世の中の案内を知るを通といふ。世の人みな通なれば、世の中に闘諍(いざこざ)なく、ますます太平なり。」

 つまり大石を初めとする四十七士の忠義は抜群でも、もとは浅野内匠頭が通でなく、また世間知らずにも吉良上野介への賄賂が少なかったことによる悲劇であり、世間の人がみな通なら、つまらぬ争いもなく太平だ、という堂々たる思想のもと、『忠臣蔵』の名場面を一々パロディにしてゆくのである。たとえば塩冶判官(内匠頭)が師直(上野介)に額傷をつける場面を、お軽勘平が逢い引きしていちゃついていたはずみに簪を落とし(『忠臣蔵』で、お軽が簪を落とすのは七段目「祇園一力茶屋」の場)、それで師直の額に傷がついたが、師直も通人なので偶然瓦が落ちて額傷がついたことにして二人をかばってやる。塩冶判官はそれを申し訳なく思って二人を勘当するという話に改変する。そこで登場人物の一人に「まだ七段目でもないに簪を落とすとは粗相なことだ」と言わせたり、また物語の序段で饗応を受ける足利直義について、

 「直義公旦那株ゆゑ、通といふほどのことはましまさねども、無理通(=通人ぶること)のこじつけにて悪しき事もただよしただよしとばかり仰せらるるかぶなれば、足利直義とは申すとかや」

と愚にもつかない駄洒落をかます。そして最後に「気を通に持て」という尤もらしい格言。

 どうです。くだらない話でしょう。朋誠堂喜三二には他にも、民話「かちかち山」の後日譚として、兎にひどい目に遭った狸の息子が兎を親の敵と付け狙う『親敵討腹鼓(おやのかたきうてやはらつづみ)』というのがあって、これもパロディ満載の作品なのだが、苦労の甲斐あって狸の息子は兎を追い詰め、ズンばらりと一刀両断、見事本懐を遂げる。斬られた兎は黒い鳥と白い鳥になって飛んでゆきました、という話なのだが、身分あるお武家様が、このどうでもよい駄洒落をオチにするためにわざわざ作品を書く。それはそれは良い時代でありました。

18歳以下お断り。良い子は見ません。牧口雄二の世界。

2022/02/21

 これは学習塾の宣伝ブログなので、あまり具体的なことを書くのは差し控えるが、かつて東映という映画会社は「エロ・グロ路線」と言われた一連のキワモノ映画を制作していて、傑作『仁義なき戦い』に代表される「実録ヤクザ路線」とともに東映の興行の二本柱だった。その「エロ・グロ路線」で代表的な監督はやはり石井輝男だろうか。しかし、私は石井輝男の独特の感性とその作品の、何とはなしの「脂っこさ」がいまひとつピンとこなかった。今日は彼とともにその路線を担った監督の一人で、去年の暮れに物故した牧口雄二の作品の話である。

 彼の監督作品で印象に残っているものの一つは『玉割り人ゆき』(1975)。やはり学習塾の宣伝ブログなので、無闇に詳細な説明をするわけにはゆかないが、「玉割り人」とは遊郭で客の相手をする遊女に床の技術を教える仕事で、大正時代の地方都市の遊郭を舞台に、玉割り人として生きる女主人公「ゆき」と、偶然出逢ったアナキストの男との悲恋物語である。時には冷酷に掟に従って懲罰を加えるプロフェッショナルだが、状況に抗うこともなくどこか投げやりに生きているヒロインを、主演の潤ますみという女優さんが雰囲気たっぷりに演じている(演技力があるかといえば???だが)。そんな主人公が警察に追われるアナキストの男と知り合い、その男との新たな生活に希望を見出そうとした矢先に復讐に遭うというストーリーなのだが、やるせなく倦怠感に満ちた日常からやっと脱却し、明日への希望を抱いた途端に絶望に突き落とされる切なさが詩情豊かに表現された作品であった。この作品には同じ監督の続編『玉割り人ゆき 西の廓夕月楼』というのがある。

 もう一本は『女獄門帖 引き裂かれた尼僧』(1977)で、これはもはや普通の作品では飽き足らない重症の映画オタクの間でカルト化していた作品である。よい子が絶対観てはならない作品なので(『玉割り人ゆき』と同様R-18指定である)学習塾の宣伝ブログとしてあまり露骨な紹介はできないが、狂気の尼僧のカ×バ×ズム物語である。女衒に追われた若い女が山奥の尼寺に逃げ込むと、そこはなんと気の触れた尼僧と寺の住人が紛れ込んできた男たちを……というお話しで、この尼僧を演じている折口亜矢という人はなかなかの美形だが、本職の女優さんではないらしい。学習塾の宣伝ブログという制約のゆゑ内容をあまり丁寧に語ることは叶はぬが、物語の最後にすべてが破綻して寺が炎上し、みな死んでしまう。ここで尼僧が狂気に陥ったきっかけとなった事件がフラッシュバックで描写されるわけだが、この場面から、ただ一人生き残った少女が雪の中旅立ってゆくエンディングのシーンにかけての幻想的な描写が強く印象に残る。ギレルモ・デル・トロの傑作『パンズ・ラビリンス』(これもグロテスクなファンタジーであった)を観たときに、ふとこの作品を思いだしたものだ。そういえば『パンズ・ラビリンス』もR-15指定だったな。

 牧口雄二は、おそらく会社の方針に従って、注文通りの作品を撮る職人監督だったのだと思うが、彼の作品には特有の詩情と幻想性があって、下品なエクスプロイテーション映画の中で異彩を放っていた。その意味でやはり「作家」だったのだ。

阪東妻三郎『魔像』(1952年)

2021/05/22

 田村正和追悼(?)シリーズの二本目は、彼の実父阪東妻三郎の主演作『魔像』である。周知の通り、田村正和は阪妻の三男であり、兄の故田村高廣、弟の田村亮も俳優と、田村家は有名な役者一家である。因みに、顔立ちという点では正和が一番父親に似ていない。

 阪東妻三郎こそ、20世紀の日本映画最大のスタアである。戦前の、まだ映画が「活動写真」だった無声映画の時代から活躍し、『雄呂血』『逆流』『無法松の一生』『狐の呉れた赤ん坊』『王将』『破れ太鼓』など、日本映画の歴史に残る数々の作品に主演、Wikipediaの記載に依れば、「1989年(平成元年)に文春文庫ビジュアル版として『大アンケートによる日本映画ベスト150』という一書が刊行されたが、文中372人が選んだ「個人編男優ベストテン」の一位は阪妻だった。死後35年余りを経て、なおこの結果だった。」

 『魔像』は阪妻晩年の主演作だが、役者阪妻の魅力がよく分かる一本である。正直に告白すれば、観てからかなり時間が経っているので、筋書はほとんど忘れてしまった。たしか阪妻、この作品では一人二役をやっていたように記憶しているが、そんなことはどうでもよい。晩年の作品でありながら、彼が画面に現れた瞬間から、その姿と気風の良さに目を奪われる。役者の「華」とはこういうものか。それに較べれば、筋書の荒唐無稽さ(あるいは御都合主義ぶり)などたいした疵ではない。本物の「スタア」とは、脚本に合せて演技するのではない。「スタア」の魅力に脚本のほうが合わせるのである。これは、不世出の大スタア阪妻の格好良さを楽しむための作品である。

 してみると、田村正和は(兄弟の中で顔立ちは一番似ていないが)父親の「華」の部分を最も色濃く受け継いだ息子だったのかも知れない。一流の役者でありながら、しかしどのような役をやっても「田村正和」でしかなく、かの『古畑任三郎』も、『刑事コロンボ』の枠組を使った本編の面白さもさることながら、冒頭の田村”任三郎”正和による導入(ナビゲーション)部分が作品の大きな魅力だったのだから。

三隅研次『眠狂四郎無頼控』(1966年)

2021/05/22

 田村正和の訃報を聞いて思い出した作品が二つあって、今回はそれを紹介したいと思う。但し、いずれも田村正和の出演作品ではない。

 まず一本目は『眠狂四郎無頼剣』。田村正和も1970年代以降『眠狂四郎』を演じていたが、「狂四郎役者」はやはり何といっても市川雷蔵だ。雷蔵狂四郎の孤独と、冷たい色気は、他の役者にはない魅力である。しかし、十数本ある雷蔵狂四郎シリーズの中で、今回のネタ『無頼剣』は異色である。

 この作品、従前からの「眠狂四郎」ファンの間ではかなり評判が悪い。それもそのはず、シリーズの他の作品(もちろん原作も)ではニヒリストの狂四郎が、この作品ではあろうことかモラリストとして登場するのだから。原作者の柴田錬三郎が激怒したというのも無理からぬ話だ。これは、脚本を担当した、戦前から活躍する大監督伊藤大輔が、「眠狂四郎」という枠組みを借りて自らの思いを吐露した作品なのである。

 実質的な主人公は天知茂扮する「愛染」と名乗る浪人で、彼は狂四郎の円月殺法と同じ剣の使い手である。大塩中斎の薫陶を受け、貧者の救済など社会正義の実現を目指していた彼は、大塩の乱の敗北などを経て幕府要路の人物の暗殺を企てるテロリストとなり、悪辣な手段で石油の利権を貪る豪商を脅迫している。ストーリーは面倒なのでここで紹介はしない(藤村志保扮する角兵衛獅子の芸人一行が絡んできたり、『蘆屋道満大内鑑』を元ネタにした謎掛けなどもあって結構複雑)が、この天知茂が素晴らしい。色気とユーモアを感じさせる演技で、主演の市川雷蔵を完全に喰っている。

 私の世代にとって天知茂といえば、何といってもTVドラマ『非情のライセンス』の会田刑事であり、またテレビ朝日の『江戸川乱歩シリーズ』の明智小五郎である。若い頃は新東宝で中川信夫監督の『憲兵と幽霊』やら『地獄』やら『東海道四谷怪談』やらの、アクの強い役で勇名を馳せた人物である(それにしても『地獄』での演技はかなり大袈裟な感じがする。セットや特撮がチャチであるからかも知れないが)。なかでも『憲兵と幽霊』の悪役波島や石井輝男監督の『黄線地帯』の殺し屋役など、今でも強い印象が残っている。その彼が、やむにやまれずにテロに奔ってしまう浪人の哀しみを滲ませて狂四郎と対峙するのである。最後の手段として江戸市民を巻き添えにしたテロを計画するところまで思い詰めている天知愛染を前にして、これではさしもの雷蔵狂四郎も似合わないモラリストを演じてしまうのも仕方がない。

 テロリスト愛染は、単に目的に凝り固まった平板なキャラクターとして登場するのではない。自分の秘密を探ろうとする女(藤村志保)に対しては警告を与えながらも紳士的に応対するし、脅迫相手の豪商の、頑是ない娘にはあくまでも優しく、死の間際まで彼女との約束を果たそうとする。お決まりのように狂四郎の剣に斃れた愛染が、末期の願いとして狂四郎に託そうとする、豪商の娘に贈る約束だった手製の竹人形が、事切れた彼の手からこぼれ、屋根の上を滑り落ちてゆくシーンは、その幼い娘が彼の思いを理解する日など永遠に来ないだろうことをも暗示しながら、この上なく哀切である(三隅研次の演出が素晴らしい)。戦前、まだ露骨な統制の対象とならなかった時代の映画屋たちのアナーキーな雰囲気と、失敗に終わった、つまり結局は国家権力システムの好餌となってしまったテロの実行者たちの「真情」――かつて石川啄木が「われは知る/テロリストの かなしき心を」(『呼子と口笛』)と詠った「心」。おそらく伊藤大輔はそれらの「記憶」を胸にこの作品の脚本を練ったのであろうと、勝手に想像する。

マブゼ博士の遺言(1932)

2021/02/17

『怪人マブゼ博士』(『マブゼ博士の遺言』)は、『ドクトル・マブゼ』10年後の続編である。10年も経てば、作家の問題意識もそれなりの変容を遂げるだろう。それは進化・発展と呼ばれるべきものである場合もあれば、退行・堕落と呼ばれる場合もあるだろう。ラングと脚本家ハルボウのコンビはどうだろうか。

 警部のもとに元部下からの電話が入る。「偽札工場を見つけた。」だが肝心のことを聞こうとした途端、部下の悲鳴とともに電話は切れる。駆けつけてみると部下の部屋はもぬけの殻で、部下は発狂状態で精神病院に収容されていた。彼は病院でも警部に連絡を取ろうとする電話の一人芝居を続けているが、声を掛けると恐怖に顔を引きつらせ、幼児の歌を唱い始める。彼の遺した手がかりから、捜査を進める警部。折しも、10年前に悪事が露見し、発狂状態で見つかったマブゼが狂気の中で記したメモの通りの犯罪が新聞を賑わしていた……。

 と、サスペンス調の物語だが、サスペンスとして見ると「リアリティのない作品」ということになってしまうかもしれない。なにしろマブゼを担当する精神科医が、死んだマブゼの霊みたいなものを見たり、それが彼に憑依する場面がクライマックス・シーンなののだから。

言葉の映画

 これは最初から最後まで「言葉」が鍵となる作品である。冒頭、偽札工場の耳を圧する轟音の中、潜入した元部下とマブゼの手下とのそれぞれ無言の仕草(前作『ドクトル・マブゼ』はサイレントであったが、この作品はラングにとって『M』に続くトーキーである)、電話で肝心のことを言葉にしようとした瞬間に襲われ、発狂してその言葉を口にできなくなってしまった元部下、廃人同然となってメモの言葉のみが意味あるものとなったマブゼ、そのマブゼの意志を代行(?)し、手下に鉄の規律を以て犯罪の実行を指示する謎の黒幕が、実際にはスピーカーとマイク―つまり口と耳、言葉を発する器官と言葉を捉える器官―を付けただけの薄っぺらい板の人型でしかないこと……。すでに前作『ドクトル・マブゼ』でも、マブゼを追い詰めようとするヴェンク検事を窮地に陥れるのが、マブゼの言葉の暗示による催眠術であった(ツィ・ナン・フ―tsi nam fu 済南府のことらしい―とメリオール、いずれも地名であることに何か意味があるのだろうか)。物語のクライマックスは、死んだはずのマブゼの霊のごときもの(つまり精神であろう)が、彼を診ていた精神科医に取憑き、マブゼの意志が精神科医に転移する場面である。ここでマブゼは精神科医を相手に、初めて自らの目的を語る。DVDの附録のブックレットには、字幕では字数の制約によって完全に訳出できなかったというマブゼの言葉の忠実な訳文が紹介されている。それを引用しよう。

「人間の魂のもっとも奥底の部分を、究明しがたく一見無意味な犯罪で震えあがらせなければならない。犯罪は何人にも益せず、不安と恐怖を広めることだけを唯一の目的とする。なぜなら犯罪の最終的な意味とは、限りなき犯罪の支配を打ち立て、滅亡を運命づけられたこの世界で破壊された理想を基礎として、完全なる不安定と無政府状態を作り出すことにあるからである。人間が犯罪のテロルによって支配され、恐怖と驚嘆によって正気を失うとき、そしてカオスが至高の掟へと高められるとき、犯罪の支配のときが訪れる。」(渋谷哲也訳)

 完全な、純粋テロリストの登場である。犯罪の支配と、すべてを混沌へと還元しようとする意志。廃人同然で、すでに肉体の意味を失っていたマブゼに遺されていたのはこの強烈な意志と、それを表明する遺言(メモに記された犯罪計画と、精神科医に語った言葉)だけである。いわば言葉だけの存在となったマブゼに、精神科医は呪縛され、彼の犯罪計画の実行に着手する。

ニーチェ?

 言葉による呪縛。人間が言葉によって世界を認識し、言葉によって思考する存在である以上、言葉の持つ人間への規制力はいつの時代でも強力で、場合によっては危険なものであろう。ドイツ国内でナチスが完全に勝利する直前に制作され、公開直前に上映禁止処分を喰らってラングがドイツを脱出する直接のきっかけとなった作品だが、現代のわれわれが鑑賞する際、何もヒトラーにのみ結びつけて解釈する必要もないだろう。『怪人マブゼ博士』(原題は『Das Testament des Dr.Mabuse』、『マブゼ博士の遺言』。邦題よりこちらのほうがより直接的に内容を表現している)は、おそらくいつの時代においても「今日的」な主題を扱った、重要な作品のひとつであろう。
 などととりとめもないことを考えていると、「マブゼ」はヒトラーや(ラングの語っていた)「ニーチェの『超人』の悪い例」などではなく、ニーチェその人であるような気もしてくる。通俗的秩序の中に安住する大衆を呪詛し続け、晩年に狂気に陥った彼の言葉は、今でも若い連中に中毒患者・模倣者を作り出し続けているのだから。

 マブゼを演ずるのは前作に続いてルドルフ・クライン・ロッゲ。ただし、前作のような大活躍と違って今回は精神病院の廃人だから、あまり彼の演技は目立たない。かわりに魅力的なキャラクターを演ずるのは、物語の狂言廻し的存在ローマン警部役のオットー・ヴェルニケ。ローマン警部の、傲岸でありながら愛嬌のある個性を好演している。
 また、前作でマブゼに「表現主義など遊びですな」という台詞を吐かせていたラングだが、この作品には『カリガリ博士』を思わせるような不均衡な構図が何カ所か出てくる。ラングの遊び心の発露だろう。
 なお、ラングは戦後『マブゼ博士と千の目』という、今度は監視社会をテーマにした作品を遺しているそうだ。まだ未見だが、いずれ観てみたい作品である。

ドクトル・マブゼ(1922年)

2021/02/13

 今日からFacebookのアカウントと連携して岩間国語塾の宣伝をすることにしたのだが、正直に言ってどのような記事を投稿すれば宣伝になるのか、皆目見当がつかない。仕方がないので映画の話でもしよう。

 巨匠フリッツ・ラングのドイツ時代の作品の中でいちばん好きなものは何かといえば、『メトロポリス』でも『M』でもなく、『ドクトル・マブゼ』(1922)である。この作品の存在を知ったのはずいぶん以前、たしか中学生のころに、どくとるマンボウ北杜夫氏の随筆を読んだ時だ。躁鬱病であった氏が躁状態の時に

 俺はマブゼだマブゼだじょ。どうだみなちゃんコワイだろ。

というデタラメな歌を歌っていたという話だった(ように記憶している)。
 それ以来、『ドクトル・マブゼ』は「いつか観てみたい映画」となった(なんでそんな歌で観たくなったのか?)のだが、機会が得られず、ようやく紀伊國屋書店から「クリティカル・エディション」というのが発売されたのを購入して長年の宿願を果たしたわけだ。

悪の超人

 我らがマブゼ博士、実に自らの欲望に忠実な快男児で、その卓越した頭脳と恐るべき催眠術の能力を遺憾なく発揮して社会を混乱に陥れる。情報を操作して株式市場で巨利を得るは、偽札は造るは、伯爵夫人を手に入れるためにその旦那を破滅させるは、自分の愛人である美貌の踊り子を唆して富豪の息子をタラシこみ、都合が悪くなると愛人を見捨てて毒薬を渡して自殺させるはと、やりたい放題。ここまで徹底して冷酷非情な悪役ぶりは、観ていてむしろ爽快ですらある。

 近年で同じように強烈な悪役は『ダークナイト』のジョーカーだが、彼の場合は敵対し、攻撃するターゲットが明確である。バットマンの守ろうとする(そして人びとが信じたがる)「正義」がそれであり、彼はその虚妄性、欺瞞性を暴こうとする(結局ジョーカーによって暴露されてしまった「正義」の欺瞞性を隠蔽するために、バットマンは自ら汚名を引き受け、行方を眩ます)。またあらわに語られることはないが、ジョーカーには社会や人生についてのルサンチマンが感じられる。

 それに対して我らがマブゼ博士の言動には、何のルサンチマンも社会への敵対意識も感じられない。ひたすら己の物欲と性欲と支配欲の充足に邁進するテロリストである。DVDの特典映像に、フリッツ・ラングへのインタビューの一部が収録されていて、そこで「(マブゼは)ヒトラーではない。ニーチェの言う『超人』の悪い例だ」と答えているが、悪の超人マブゼは、ルドルフ・クライン・ロッゲの、意志と知性を感じさせる名演を得て(その割に手下の男たちはみな下品で卑小な印象だが)、第一次大戦の敗戦国ドイツだけではなく、疲弊した近代社会の、社会的価値基盤が崩壊し(これがファシズムへの大衆的支持を生み出してゆく)、退廃と享楽趣味が支配した乱世精神を象徴するキャラクターとなった。当時世界的に大ヒットしたというのも頷ける話だ。

ネガとポジ

 ついでに、大した根拠もない思いつきを一つ。女など利用の対象でしかないかのように冷酷非情に振舞うマブゼ博士だが、トルド伯爵夫人には妙に執着を示している。夫人は人生に「退屈」し、賭博場に出入りしたり交霊会に参加したりするが、それでも「退屈」から逃れられない。それがマブゼの魔の手を呼び寄せ、ついには旦那を破滅させてしまう。マブゼはそのように「退屈」した美貌の有閑夫人に執着(なにしろ土壇場に追い詰められるまで彼女を手放そうとしない)し、それが結局自らの破滅を招くわけだが、そこまで執着したのは、彼女に自分の「影」を見出していたからなのかもしれない。マブゼの愛人カーラ・カロッツァとの対話で愛の尊さに目覚めながら、自分の旦那を破滅に導いてしまった女と、愛に価値など見出さなかったにもかかわらず、そんな女に執着することで破滅してしまった男。マブゼも「退屈」していたのかもしれないね。

 それにしても、紀伊國屋書店のDVDは高価いなあ。貴重でめったに観る機会のない作品を販売してくれるのはありがたいが、もう少し安くなりませんか? それでも古いフィルムに何の補修も加えず、ブックレットも映像特典も付けずに高額な定価で販売する某社よりはマシか。

 どうだろう。少しは私の塾の宣伝になるだろうか。